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日蓮教では幸せは来ない!

日蓮正宗で幸せ」は来ない! ー俗信・迷信

2017/02/23 11:00

日蓮正宗

凝(こ)りすぎると恐ろしい事態に陥(おちい)る可能性もあると認識しておくべきた。

初めは興味本位、

のつもりが、

少しずつ依存するようになり、

ついには御僧侶なしには何も決められなくなってしまう人もいる。

実際、

人間が教団に操(あやつ)られて、

最も信用すべき家族と意思疎通ができなくなったという話しも聞いたことがある。

また、

元気になるような言葉を聞きたい〈見たい〉と、

気分を上げてもらうために寺院を利用する人も。

これも、

アディクション〈依存性〉への道を歩んでいると言える

正しい“智慧”を持とう

では、

「信仰」で将来を見極め、

幸福な家庭を築いた人がどれだけいるのだろう。

むしろ振り回されたり周囲の人々を巻き込んで苦悩を増す結果となっているのが実状ではないだろうか。

やはり幸せな生活は、

信仰などに頼らず、

正しい理性による正しい智慧を持って“自分自身”が築くものと知るべきだ。

その「智慧」という語は、

「決断を智といひ、

簡択(かんたく)を慧といふ」〈大漢和辞典

と解説されている。

考えてみれば、

日常も人生も「簡択〈選ぶこと〉」と「決断〈決めること〉」の連続。

例えば朝の「パンを食べようかな、

それともご飯にしようかな」から、

大事な局面の「どの学校に進学しようか」「どの会社に就職しようか」まで、

およそ簡択と決断を経ないことがないことがないと言っていい。

ただ、

我々凡夫の智慧〈凡智〉は煩悩によって汚れているので、

最善の簡択と決断をすることがとても難しい。

楽なほうを最善だと思いたいし、

お金であれば、

より多いほうがいいと考えてしまう。

では、

仏様の智慧、

すなわち「仏智(ぶっち)」とはどうだろうか。

ここに一つの譬(たと)え話がある。

黄金と毒蛇の話

ーその昔、

釈尊が弟子の阿難尊者と一緒に歩いていると、

田んぼのあぜ道に小高く盛り上がっている所がありました。

釈尊はそこを指して

「阿難、

あそこに毒蛇がいるぞ」

と言いました。

すると阿難尊者も

「仰せの通り、

あそこに毒蛇がおります」

と応えました。

これを見ていた農夫が

「こんな所に毒蛇などいるものか」

と言って、

盛り上がった所を掘ってみると、

何と黄金が埋まっていました。

農夫は

「バカなことを言う坊さんだなあ」

と言って、

その黄金を掘り起こし、

一夜にして大金持ちになりました。

ところが農夫は、

急に大金持ちになったものですから、

周囲の人に色々な噂を立てられて、

結局、

役人に怪しまれて身を滅ぼす結果となってしまいましたー 〈国訳一切経から〉

という話だ。

お金を見つけて

「わあ、

これで大金持ちになれる」

と喜んでしまうのが凡夫の智慧であり、

「急にお金が手に入ると人生が狂う」

と判るのが仏の智慧、

仏智なのである。

信仰でがんじらめになってしまう心の状態は、

言わばじしんの智慧がすっかり機能不全に陥った、

最も悪い状態と言えよう。 」

http://ameblo.jp/t-shukyo-shinko-happy/entry-12250448060.html