伝統と精神的支柱

目に見える伝統と、目に見えない精神的支柱

この事件は、このオヤジがバカだから…というのが原因ではないし、厳罰に処せよ…という問題でもない。

神も仏もない時代故に起こるべくして起こった事だと思う。

もはや「神も仏もない」というのはアチラの事情ではなく、一人一人の心に神仏など存在しない時代になったという事だ。

戦後日本はあまりにも宗教・信仰を苛めすぎた。

新興宗教を含め拠り所に対してあまりにも非寛容過ぎた。

マンソンファミリーが出ようがオウムが出ようが信仰というのは保たれなければならないし、護られなければならない。

国や自治体ではなく、国民一人一人がだ。

ましてや神道など教義を持たないのだから、側に住み暮らす人々の伝統への遵奉精神のみで保てる筈がない。

個人主義となった現代社会で、自分の外に御し難く度し難い存在があるとするのは、我々が思うよりも重要だ。

自分で自分の顔は見れない。鏡が必要だ。

自分自身を俯瞰して見るには普遍的で規律となる確固たる存在…自分だけでなく他者も同様に接する一定以上共有された存在が。

ソレが目に見えないとか、おとぎ話だと笑うのは間違っている。

何故なら我々が「世界」「世界の国々」という時、山や川や建物を指してはいない。

そこに住み暮らす人々の文化、民俗、風習を指して世界と呼んでいる筈だ。

それらは一見目に見える物を指すようで、実は目に見えないモノを指している。

すなわち世界とは概念であり、我々の世界は巨大な観念で出来上がっている。

日本という国は、先の大戦の殺戮から如何に文明が発達し知恵と知識を得ても、ついぞ人類は理性的には成り得ないと理解出来ていないのだと思う。

人が持つであろう(と思われている)理性というモノほど信用ならないモノはない。

宗教は怖い、信仰はキモい。

逆。宗教、信仰を持たないヤツらが取捨選択出来ずにカルトへ導かれるし、自分の都合で人様に迷惑を掛ける。

到底理解出来ない気色悪い思考で何をしでかすか分からない。

信仰というのは盲目ではなくて選択なのだ。

選択したものに対して、俗世の誘惑による疑いと葛藤しつつ愚直に信じようとする、選択と信念の様なのだ。

以信代慧…ただ信ずる心を以てのみ知慧の門に入る

日本人の精神が見る見る空虚になる。

そうなれば民族的拠り所であった神社は益々、虚妄の伽藍と化し朽ちて行くのは必定。

物見遊山で御朱印を集めるのは、些かのゆとりがあるというだけで何ら歯止めにはならない。

そうしたゆとりの無い連中、自分の都合で社に火を放つ輩がこうして居るのだから。

神社に例えるなら目に見える伝統は拝殿、目に見えない精神的支柱は本殿と言える。

燃えたのは目に見える物だけで無いのは、誰もが理解出来たと思う。

目に見えない、大事なモノが失われた事を。

これから益々、目に見える伝統と目に見えない民族の精神的支柱がガラガラと音を立てて崩れて行く様は止まらないように思える。

63歳男「生活に困り」神社放火

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