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古戦場めぐり「川井城の戦い(栃木県那須烏山市)」

古戦場めぐり「川井城の戦い(栃木県那須烏山市)」

◎『川井城の戦い』

「川井城の戦い」は大永元年(1521)11月、那須烏山市上川井の上川井城で行われた、宇都宮俊綱・岩城常陸と河井出雲守・大膳との戦いです。

永正11年(1514)、上那須那須資氏(資親)は資永を廃して、実子の資久に家を継がせようとしました。このとき、家臣大田原氏の策謀などもあって家中に内紛が生じ、資永・資久ともに死去しました。その結果、下那須の資房が後を継いで両家を統一するところとなり、戦国大名として領国経営にあたりました。以後、資房は戦国大名として近隣の諸大名と争うことになります。

永正17年(1520)、結城義永と岩城常隆の連合軍が那須に侵入し、山田城と縄釣台の2ヶ所で、那須郡の諸将を率いて連合軍を打ち破りました。川井氏は岩城氏と那須氏の戦いに参戦し、永正18年/大永元年(1521)11月、岩城氏は宇都宮氏と連合して那須氏を再び攻撃しました。この際、主戦場となったのが上川井城です。那須資房は烏山城から上川井城に入り、上川井出雲守兄弟・同大膳掾父子・同下総掾・熊田氏らが立て籠もって奮戦し、3000余騎に囲まれましたが、10日たっても持ちこたえ、壬生氏の進言で和睦したといいます、この戦いを、川井城の戦い (川井合戦)といいます。

その後、川井氏は天正11年(1581)の広瀬縄鉤合戦、天正13年(1583)の烏山下境川原合戦、天正13年(1585)の薄葉ヶ原合戦・乙畑城攻城戦に参陣し、勲功を挙げました。天正18年(1590)に主家那須資晴が改易されると、上川井氏も没落し、佐良土に転居します。その後の系譜は不明となりました。

○「上川井城跡」(那須烏山市上川井)

「上川井城」は、那須氏の一族・那須友家が下川井城と共に築城し、小堀城・小堀館などと呼ばれて、那須一族の右翼・下川井氏(川井氏)が代々拠点としました。源頼朝那須野狩りをした建久4年(1193)、川井氏森田・高瀬・熊田各氏と参加しています。永正17年(1520)、川井氏は岩城氏と那須氏の戦いに参戦し、翌永正18年/大永元年(1521)に岩城氏は宇都宮氏と連合して那須氏を再び攻撃しました。この際、主戦場となったのが上川井城で、立て籠もって奮戦します(川井合戦)。この戦いは、今のところ『那須記』でしか確認できないようで、史実かどうかははっきりしていません。また、川井合戦の舞台はここではなく、城の規模や付け城らしきものの存在などから、下川井城ではなかったかと想像できます。

烏山から県道25号を江川に沿って喜連川方面に北上すると、江川を挟んで対岸に江川小学校があります。小学校の東側に、北の喜連川方面から南東に張り出した山があります。下川井城は、この江川と岩川に挟まれた尾根の上にあります。小学校からは南東600mですが行く道がないので、この城については余り知られてはいません。上川井城は緩やかな傾斜地に築かれた平城で、後背の土塁と空堀がよく残っていますが、前面は湮滅していて城の形を定かにはできません。空堀は3〜4m程の深さを持ったしっかりしたものですが、この程度の城で籠城戦が可能だったのか、かなり疑問に思われます。神社のある山の南側の麓が、館の跡になります。案内板が立っているので場所はすぐに分かりますが、案内板がなければどこかさっぱり分かりません。高さ2mほどの土塁がしっかり残っていますが、全体にヤブがひどいです。南側は畑地となって湮滅していますが、それ以外の部分はわりとよく残されています。城のある山の標高は170m、麓が120mなので比高は50mほど。城へ行く道はなく、全く藪に閉ざされた城です。本郭へは南側の堀から入\xA4

襪海箸❹任①⊆騮呂謀變櫃❹△襪里漏稜Г任④泙垢❶∫丨ⅻ┐垢丨徳緩討和Ľ┐蕕譴泙擦鵝﹅覦茲箸靴討賄貔\xBE100m、南北250m程度かと思われます。

○「小志鳥砦」(那須烏山市志鳥)

「小志鳥砦」の築城年代は定かではありませんが、烏山城主・那須資房が、周囲の宇都宮・佐竹・結城・岩城らの侵略に備えて築いた砦の一つです。大永元年(1521)、岩城常隆が上川井城を攻めた際、上川井氏をはじめ熊田氏・岡氏の率いる300余騎は烏山城を目指して落ちていきました。その途路寄ったのが、小志鳥砦であったといわれています。小志鳥砦は、下川井城の岩川が流れる谷を挟んで反対側、東側の山にあります。砦のある山の標高は170m、麓が120mなので比高は50mほど。規模は小さく、解説板では郭内は16m×50mの規模に過ぎません。南北に連なる半島状の丘陵の南先端に築かれた砦で、現在は城址公園として綺麗に整備され、砦の遺構も確認しにくいです。南側の空堀と土塁が、この砦の一番の見どころです。